Sri.M 自叙伝 P1

40年前、インド南西部ケララ州出身の19歳の青年がチベット国境ヒマラヤ山中のバドリナート近くのヴィヤサ洞窟で深い瞑想状態にあるところを発見された。
当時でも若い青年がヒマラヤに瞑想に行くなどというのは珍しい出来事であった。さらにこの青年はヒンドゥ教徒でさえもなかったのである。
どうしてこの青年はヨガ行者となったのか。彼を想像もできないほどの壮大で魅力的な世界に引き込まれたのか、これは私自身の人生の実話である。

私はトリバンドラムで生まれた。トリバンドラムはアナンタという蛇の上に寝そべるヴィシュヌ神の町と呼ばれている。
アナンタはサンスクリット語で『永遠』を意味する。トリバンドラムは海岸沿いにあるケララ州の州都である。1948年当時のケララ州は山々と豊かな緑と河川の合間にのどかな集落が点在していた。

私は1948年11月6日、商人としてケララに移住してきたパタン族の家に生まれ、パタン族はトラヴァンコアのマハラジャであったマルタンダ・ヴァルマの勢力に加担していた。

先生のことをババジー(お父さん)と呼んでいた。彼の口癖は、『物事はシンプルにダイレクトに!、ごちゃごちゃにしないこと!普通の人のように生きなさい。偉大なるものは宣伝する必要はない。偉大なものに興味を持った者はそれぞれが自分で探求しなければならない。この世でいかにハッピーに過ごすことができるか、という良いお手本になると同時に、意識の永遠に豊かなエネルギーと光明に焦点を合わせていなさい。』

私が9歳6ヶ月の時に、親愛なる恩師は私の人生に姿を現した。

6歳の頃から私はあぐらをかく習性があった。なんと生後2ヶ月の写真でさえも足を組んでいる。
成長してからもこの癖は変わらずに、のちにこれはヨギたちの伝統的な坐法であることを知ることになった。
現在でも私はいつでもどこでも、食卓の椅子の上でも、同席の人々が気を害さないのであればこの座り方をしている。

また、5歳の頃から10歳になる半年くらい前までの間、私は同じひどい悪夢に悩まされていた。それは真夜中、夢の中で長くて鋭い牙と爪を持つカタカリダンサーに似た魔物に襲いかかられ連れ去られそうになる夢であった。その夢を見ると寝ぼけたまま私は「逃げなきゃ!」と叫んで家を飛び出し、そうなると父親に耳元で大声で名前を呼ばれてやっと我にかえったものであった。
夢の中でその魔物に捕まることは一度もなかった。

色々な治療を試したり、お守りを身につけたりしたが、効き目はなかった。
師に出会ったその日以降、この悪夢を見ることは一切なくなった。ずっとずっと後になって、あの頃私が何から逃げ出したかったのかがわかった。

母方の祖母はスーフィーの物語を語って聞かせてくれた。祖母と私のお気に入りの物語は、トラヴァンコル王朝に100年前に実在したスーフィー聖者の聖ペール・モハメッド・サヒブの物語であった。有名なバラナシの聖者カヴィール・ダスと同様に、ペール・モハメッド・サヒブも織工であった。彼は機織の仕事をしながら溢れんばかりの信仰心や神秘についてタミル語で歌った。それらの歌は今でもタミルのスフィーの間ではよく知られている。歳をとってから彼は失明し、弟子の青年たちの手を借りて暮らしていた。2人のアラブ人の医者がこの聖者を訪ね、どうしてメッカ巡礼をしないのか、と聞いた。すると彼は”ここ”がメッカである、と。村人たちはこの男は頭がおかしいということにした。
この聖者のお墓は私の親戚のすぐ近くにある。

5歳から9歳までの間、ヒンドゥ教とキリスト教について知る機会があった。その頃、私はある宗教に属する人たちが他の宗教について偏見を持つのだということに気づいた。祖母もイスラムの聖人について話すときはとても得意げで、ヒンドゥの神のことは不機嫌な様子で語ったものである。

私はキリスト教の修道院が経営する英語で学ぶ学校に通っていた。教会の前を通る時には胸の前で十字をきって祈りを捧げるように躾けられた。
ある日、キリスト教の修道女である教師が、イスラム教は太陽信仰であり、ヒンドゥ教はお化け信仰だ、と言ったのを聞き、とても驚いた。
近所の人々はほぼ皆ヒンドゥ教徒であり、彼らの家に招かれたくさんの神様が祀られているのを見るのがとても好きだった。
当時の私はなぜかヒンドゥ教徒のブラフミン階級の家の女性たちにとても可愛がられ、お菓子などをもらったものであるが、祖母にはそんなもの食べるな!と叱られた。
近所のヒンドゥ教徒の中には私の母親が作るマトンビリヤーニが好物な者もあった。私の好物はいつもイドリーやサンバルと言ったヒンドゥ教徒の菜食主義者のメニューであった。

私が初めてヒンドゥ教の宗教的な催しを体験したのはある日曜日の朝、突如私の家の前に出現したキルタン弾きであった。
私はおもちゃを投げ捨てて門に駆け寄り様子を伺った。4人の男たちがオレンジ色の腰巻布を身につけ、歌い踊っていた。
その中でも一際ハンサムな男はグループのリーダーのようであった。彼はあごひげをなびかせて真っ白の花のマラをしていた。彼はムリダンガム(太鼓)、シンバル(小さい金属製のカスタネットのような楽器)の美しいリズムに合わせて「ハレラマ ハレラマ〜」と恍惚とした様子で踊り、閉じられた目からは一筋の涙が溢れていた。彼はトランス状態に陥っているようであった。集まった住民たちはこの男性の足元に膝まつき、有り難そうに祈りを捧げた。
私の胸は不思議な幸福感に満たされ、湧き上がる笑いを止めることができなかった。私は自宅に走り、いくつかの小銭を掴んで走って戻りこのグループの寄付金入れに投げ入れた。そのとき、祖母が私の名前を呼ぶのが聞こえ、私は罪深く感じ、最後に一度振り返ったその時、その男は目を開き私の方を向き、私が自宅に入る寸前に一瞬目があった。その後、そのグループは移動し音楽は遠くに聞こえた。祖母からはお咎めはなかったが、イスラム教徒としてのお説教をされた。
ずっと後になって、あの恍惚として踊っていた男は、私の自宅からそう遠くないところにあるアシュラムに住むスワミ・アベダナンダであることを知る。
私が学生の頃になって、何度も再会することになる。

<つづく> 

 
ツールバーへスキップ